宮上日陽のオールレンジアウト

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毎日ペプシスペシャルを飲んでる摂取カロリーの気になるお年頃なヘタレ雑食ゲーマー。

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SS【Ever17】 「愛の記憶」

Ever17 -the out of infinity-  [恋愛ゲームセレクション]Ever17 -the out of infinity- [恋愛ゲームセレクション]
(2008/09/19)
Windows Vista

商品詳細を見る

 彼女にとって世界は闇そのものだった。
 闇は絶えず身体にまとわりついてくる。
 手触りすら感じるそれを振り払うことには少なからぬ労力を必要とした……ゆえに、今は身を任せている。
 自ら闇の一部となりそれそのものとなって生きるのであれば、暗黒の中にも居心地の良さはある。
 母胎に似ているかもしれない。
 闇は本来穏やかだ。
 底冷えする程の徹底した諦観が彼女の胸中を満たし、無感覚をもたらした。
 心も身体も痛みは感じているのだろう。
 しかしそれも慣れてしまえば、無いのとさほど大差は無い。
 夢や希望を剥ぎ取られる激痛に比べれば、どうということはない。
 そんなものも求めなければ失うこともない。
 あるのは絶望だけだが、それでも死ぬ事は無かった。
 心の中にぽっかりと口を開いた虚無は、日常の全てを貪欲に平らげ、消し去っていく。
 彼女は昨日の出来事ですらはっきりと思い出すことが出来ない。
 意識も半ば混濁している……それが無感覚になるということだった。
 自我の持つ濃度を可能な限り薄める事で手にした彼女なりの処世術である。
 もっとも人はそれを世渡りの術とは呼ばないだろう。
 虚無は死んだ魚のような瞳となって表に現れていた。
 たかだか二十歳前後の若さに似つかわしく無い荒んだ視線は、他人を遠ざける効果を持った。
 既に周囲は暗い。街頭の灯りがあるだけだ。
 夜空から星が消え去って久しい。
 彼女が子供の頃はまだ見えていたはずだった。
 ほとんどの人間は美しい星空を失ったという実感など無いだろう。
 あるいは人類という種そのものが鈍感、無感覚になりつつあるのかもしれない。
 彼女は濁った意識の一部を収束させた……こうして時々自己を顧みなければ、今自分が何をしているかすらわからないからだ。
 とりあえず歩いていた。
 手には ビニール袋を持っている。中身は食料だろう。
 どうやらコンビニかどこかで買い物をした後のようだ。
 確かに少し前に買い物をしたような気がする。
 袋にはレシートが入っていた。
 日付が記されている。
 少し驚いた。
 西暦の下二桁が自分の認識よりいくつも多い。
 日々を繰り返す感覚すら失った彼女は、おとぎ話の浦島太郎に似ていた。
 間の記憶が限りなく曖昧であれば、一瞬にして数年の時を飛び越すのとほぼ同義になる。
 普通ならば、その代償として若さを失い、後悔することになる。
 しかし、もし若さを失わずにいられるなら?
 人は否定するだろう。
 それでもこれは……彼女でなければなし得ないという意味で極めて特異では有るが……処世術だった。
 ふと、足が止まった。
 間借りしている安アパートまであと一区画といったところか。
 夜の女性の一人歩きの危険性が叫ばれて久しいが、だからといって夜遊びに興じる女が消えたわけではない。
 逆に言えば夜の戯れに興味を見出せない部類の女性の姿は減った。
 ゆえに、異様であった。
 まさに彼女の帰ろうとしているアパートの前にひとりの女がいた。
 今アパートから出たばかりなのか、背に蛍光灯の光を受ける女の顔は影になってはっきりとしない。
 黒尽くめの自分とは対照的に、白一色のコーディネートで全身を飾り立てている。
 向こうでもこちらの姿に気づいたようではあった。
 が、背を向けるとそのまま歩み去っていく。
 優雅という言葉の似合う足取りだった。
 その背を追うことが出来ない。
 両足は路面に貼り付いたかのように動かず、それでいて心臓は強く脈打ち自己を主張してきた。
 やっとのことで掠れた声を出せた時には、もうその女性の姿は消えていた。

「……空?」

 残るはずもない芳香を感じながら、なぜか彼女は確信を抱いていた。
 あれは間違いなく茜ヶ崎空だった。






 他人に部屋を見られるのが苦手だった。
 昔からそうで、今も変わらない。
 部屋はそこの住人の内面世界を浮き彫りにするからだ。
 心に空虚を宿らせる女の部屋は、やはり寒々としていた。
 必要最低限の家具すら無い。
 部屋の隅に無造作に置かれたゴミ袋とペットボトルが無駄に生活感を演出している。
 誰が見ても、ただひたすらに誰にも邪魔されずに寝るためだけの空間にしか見えないだろう……彼女自身、そのようにしか見えない。
 従って愛着などあろうはずもない。
 数えきれない程転居を繰り返して来た。
 ここは今使っている部屋というだけの場所に過ぎない。
 どうせまたすぐにどこかへ移り住み忘れてしまうのだから、部屋に個性を求める必要を感じない。
 真っ暗な部屋の中央には同居人がいた。
 赤い瞳が彼女を見上げている。
 小さなジャンガリアンハムスターである。
 名前を……確認する。
 チャミ。
 忘れていない。覚えている。
 後ろ手に鍵をかけた彼女が名を呼びかけると、いそいそと駆け寄って来た。
 灯りは点けない。そもそも電気を通していない。
 そのせいで気づくのが遅れた。
 チャミのいた部屋の中央に何かがある。
 どうやらそれに乗って彼女を出迎えていたらしい。
 ある程度夜目は利く。
 ラッピングされた箱だった。
 奥歯を強く噛んだ。
 部屋を出る時にこんなものを置いて行った覚えはない。
 誰かが無断で鍵を開け部屋に入り、これを置いて行ったということか。
 空だろうか。
 さきほどはこれを置いて出た矢先だったのかもしれない。
 だが、いかにも有りそうな想像を彼女は否定した。
 そんなことが出来るはずはない。
 セキュリティなどまともに考慮していない、家賃の安さだけが売りのようなボロアパートなのだから、侵入は誰であっても容易だろう。
 時代が移り変わってもこの手のアパートはなくならない。
 日陰者がひっそりと暮らすためには必要な場所だからだ。
 彼女はチャミを床へ下ろすと、注意深く箱を確認した。
 包装自体は丁寧だが、使われている紙はどこかの店で使われているもののようには思えない。
 真っ白な表面にロゴや文様の類いは描かれていないようだ。
 そのせいか大きさで言えば菓子折りと同程度のわりに、妙に殺伐とした雰囲気がある。
 たいして重くは無い。
 振っても大きな音はしない。
 彼女はハサミの刃をカッターがわりにして、テープを切った。
 包まれていた箱にも何も書かれていないところを見ると、商品として流通しているものでは無いようだ。
 蓋を開けてみると、中には黒い服が入っていて、その上に一通の手紙が乗せられていた。
 ろくでもない文面であろうことは容易に予測出来た。
 そして予測は当たってはいた。


 これはあなたに必要なもの。
 そしてあなたの望む全てをもってしかるべき日に天国で。


 彼女の血中温度がにわかに上昇した。
 胸に込み上げて来る物を感じ、一瞬遅れてその正体を知る。
 どこか冷めた別の自分が、突然の感情に奔騰する自分を皮肉げに見下ろしている。
 短く、そして抽象的な文面には送り主の署名が無かった。
 だが、宛名は記されていた。
 彼女の本名がそこにはあった。
 ここへ移り住む時も、その前でも、関わり合ったわずかな人々に対して真の名を告げた事は無い。
 追っ手から逃れるためもあるが、自分の本当の名を呼んでくれる人間など一握りで充分だからだ。
 彼女は箱ごと中身を壁へ投げつけた。
 呼吸を荒げひとしきり立ち尽くし、そして唇の端をいびつに歪めた。

「わかってるわ……わかってるのよ」

 相手は世界を股にかける巨大企業であり、無力で助力も無い孤独な女ひとりを探し出すことなど、どうというほどのこともない。
 自分は逃げて身を隠しているつもりだったが、実のところ、始終監視の目は貼り付いているのだろう。
 見られていることを感じていながらも、それを故意に無視して来た。
 自我を薄め感覚を鈍らせるとはそういういことだった。
 それを認めたく無かった、というだけのことでしかない。
 が、疑念はあった。

「でも……どうして」

 監視を受け続けていたことはわかっている。
 しかし、なぜ今になってこんな意味のわからない接触を試みて来たのかが判然としない。
 そもそもこれまであえて放置し続けて来たその理由も考えつかない。
 いつでも接触が可能なのであれば、それこそいつでも良いことだろう。
 彼女は投げつけた拍子に箱からこぼれ出ていた服を睨みつけた。

「必要なものって……私に?」

 必要なものをを送りつける……逆に言えば今の自分に欠けているものを補うためのもの。
 心当たりはまったく無いが、鈍化した中にも残っていた好奇心が顔をもたげた。
 手に取り、目の高さまで持ち上げてみる。
 余計な飾り立ての妙に多い、年頃の少女でなければ着られないようなセンスは、本来彼女の年齢であれば着ても滑稽にしか映るまい。
 不格好というよりも、醜悪で心の歪みを浮き彫りにし、見る者に怖気さえ抱かせるだろう。

「こ……こんな……これって……」

 彼女は絶息した。
 それは見覚えのある服だった。
 17年前の事件の時に彼の前で着ていた、あの服に違いない。
 しかし彼女の持っていたあの服は長い年月の間に痛んで着られなくなり、とっくの昔に捨てている。
 今になって入手出来るようなものでもない。
 わざわざこのために仕立てたのだとすれば、相応の金がかかっているはずである。
 嫌がらせにしては手が込み過ぎている。
 相手はあの巨大企業だと考えていたが違うのだろうか。
 こんなものを送りつけて来るような相手に覚えは無い。

「これを着て来いっていうこと?」

 答えるものの無い問いに、やはり返答は無かった。
 不意に、かつて耳にした、さして意味を感じなかった文句が脳裏に蘇った。

(天国はどこにある?)

 そのまま反芻する。

「空の上。そしてあなたの足の下」

 酷く鮮明に再現されたのは、さきほどその姿を見かけたからに違いない。
 いや、あれが茜ヶ崎空当人だったはずはないが、面影は確かにあった。

「こんな服まで持って来て、誘いにでも来たっていうわけ? 同窓会のつもり?……冗談じゃないわ!」

 彼女は再び服を壁へ投げつけた。






 意識が闇の境界をゆらゆらと頼りない足取りでふらついていた。
 寝苦しいのは布団を使っていないせいで、起きた後には身体の節々に痛みを感じるのが常だ。
 例外無く一時的な宿り木に過ぎない住居を転々とする際に布団は嵩張るから所持そのものを避けている。
 冬の寒さは身体に堪えるが、結果的に死ななければどうということもない。
 外が雪の降る夜であっても死に至ったことはない……当然ではあるが。
 暖など適当な衣服を取って押し入れにでも陣取ればどうにかなる。
 どうせなら死ねればいいのにと考えたこともあった。
 餓死なら可能かとも思い実際に試してみたことすらある。
 死ぬ程苦しいからもうやらないことに決めていた。
 救い難いほどの眠りの浅さは、感情や感覚を押し殺しても消し去る事の出来ない、強迫観念にも似た警戒心がもたらしている。
 それは彼女に他人に対して心を開く事を拒否させ、信用の念を奪った。
 あらゆる物に疑念を抱き、それを晴らす事が出来ない。
 たとえそれが睡眠という行為であっても例外にはならない。
 そこから逃げ出す準備は常に出来ていた。
 それでも闇の穏やかさを忌避する感情は生まれない。
 これも愛の持つひとつの形なのかもしれない。
 気がつくと四方を壁に覆われていた。
 これが夢だと言う自覚はある。
 ただし現実との境界の曖昧な夢を自覚した所で意味は無い。
 現実世界での出来事ですら感覚を鈍らせ記憶もあやふやなのだから、現実と夢を区別する必然性もやはり薄い。
 壁は機械的なまでに無機質……というほど人を拒絶した作りではなかった。
 小窓の外は暗い。
 それも当然だろう。
 壁の向うは夜の空ではなく、光を遮る海水のそれだからだ。
 これほどの暗さとなると深度は深く、おそらくはドリットシュトックの一角であろう。
 確か触れ込みはスリルと冒険のエリアだったはずである。
 夢とはいえ、久し振りにここへやって来た。
 LeMU。
 天国というにはあまりに強く死の幻想のこびりついた、巨大な棺桶に等しい海洋型テーマパークだった。
 過去にたった一度訪れただけの場所ではあるが、良く再現されている。
 現実のLeMUの通路もこんな具合だった……ような気がする。
 ただ、少女趣味なあの黒い服は着ていない。
 寝る時に着ていたラフな服そのままのようだ。
 彼女は特に当てもなく、中を歩いていた。
 よく考えてみれば水没後の区域のアトラクションは見ていない。
 夢とはいえ見ていない部分は再現のしようがないということか。
 どことなく沈んだ雰囲気を感じるのは、彼女の他に誰も客がいないせいだろう。
 記憶の中のLeMUもおおむねこのような状況ではあった。
 事故が発生するまでのLeMUは集客力の高い人気のテーマパークだったはずだが、人の気配の希薄な方がそれらしい。
 ここはワンホールのケーキに似た構造をしている。
 中心へ向けてナイフを入れているため、各アトラクションの入ったブロックはいずれも通常の直方体をしていない。
 ブロックとブロックをつないでいるのは張り巡らされた通路だけで、惰弱と言えば惰弱な作りだが、なんらかの危険に晒されたブロックを隔離する際にはプラスに働くだろう。
 足を止めずにいると、やがてアトラクションのひとつに入った。

「ここは……」

 レトロな石造りの壁の連なる、閉所恐怖症気味の人間にとっては好ましく無い場所だった。
 そんな人間はそもそもLeMUへは足を運ばないかもしれないが。
 ここはLemurianische Ruine。レムリア遺跡、と呼ばれているアトラクションで、大袈裟に飾っているだけで、中身はごく普通の迷路を楽しむブロックだったはずだった。
 いくら人生の迷路を彷徨っているからといって、こんなものは陳腐に過ぎて夢診断の対象にすらならない。
 溜め息は苦笑の成れの果てだった。
 あの時、この場所は多少水没していたはずだが、今は水がひいているようだ。
 不意に人の声がした。
 迷路を使って鬼ごっこに興じる複数の少年少女の声のように聞こえたが、声の主を追う暇さえ無く、一瞬の事ですぐに消えてしまった。
 かと思えば背後から駆け足で近寄って来る気配を感じる。
 避ける必要は無かった。
 まるで彼女などその場にいないかのように身体を突き抜けて駆け去って行く。
 幻覚か、立体映像か、いずれにしても夢の中のことだ。
 こだわるようなことでもない。
 が、その後ろ姿にはおぼえがあった。
 走る早さには決して反映しない奇妙な手振りを加えつつ、角を折れ曲がって行く。

「……今のは……ココ?」

 彼女は驚いていた。
 今の今までほとんど完全に記憶から消え失せていた少女の名が、自然と口からこぼれ出ていた。
 思い出す事も無かったのに、今頃になって何故なのだろう。
 時折壁にぶつかるような音と、可愛らしい笑い声が聞こえて来る。

「そういえば……ココは……」

 あの事件の時どうなったのだろう。
 真っ先にウィルスに犯され死の淵にあったはずだが、その後の記憶がいまいちはっきりしない。
 陸へ上がった後、彼女はLeMUで出会った誰とも再会していなかった。
 そんな余裕など無かったということでもあるが、全員死に絶えてしまったのだという可能性もある。
 むしろその方が高い。
 死へ至るまともな療法すらないウィルスと、LeMU本体を押し潰す強大な水圧の双方に襲われ生きていられると考える方が不自然ではあった。
 自分は……死んでいないというだけだ。

「気になりますか?」
「え?」

 懐かしい少女の姿が彼女から警戒心を奪っていた。
 自分でも恥ずかしくなる程抜けた声を返してしまった。
 それは久し振りに発した素の彼女の声だったかもしれない。
 いつの間にかに彼女の横に並びかけるようにして立つ女性の姿があった。
 自分とは対照的な白尽くめの服で全身を飾った、非現実的なまでに美しい容貌は、それだけで彼女の心をかき乱した。

「お久しぶり、と言っても良いのでしょうか。小町さんはどう思われますか?」
「あなた……」

 それこそ久し振りに、以前に聞いたのがいつだかわからない程の時間を経て、本名を呼ばれた。
 当たり前ではある。
 この美女は偽名の方を知らない。

「例えば……例えばの話ですが、幻影でしかない私の姿を追ったところで意味はありません。なぜなら私の姿のあるそこに、私がいるわけではないのですから。ただ便宜上、人間という生物は対象を視認しながらの方が話をしやすい性質を持っています。そのためにビジョンを映し出し提供させて頂いています。ビジョンそのものは私では無いのです。そうであるならば、追ったところで意味はありません。追ったところで隣にいる。そういうものですから」
「空」
「はい」

 あくまで茜ヶ崎空はおだやかだった。
 現代工学の最先端が生み出した架空の美女は、いつでも微笑んでいる。
 昨夜アパートの前で見かけた時もそうだった。

「あなた、どうしてここに?」
「追っても仕方の無い者と話をしたければ、どうしたらよいのでしょう?」

 疑問を疑問で返されたことに対する抵抗はあった。
 が、返答はすぐに与えられた。

「簡単です。呼んで下されば私はいつどこにでも姿をお見せします。特にこのLeMUの中であれば」
「ふん。私があなたを呼んだ、と言いたいわけ?」
「ええ、その通りです。ですからお久しぶりと言っても良いのでしょうね。求められたことに対するお礼とも言えます。この日を私はずっと待っていました」
「まさか」

 彼女は鼻で笑った。
 口ではどうとでも言える。
 皮肉が通じなかったとも思えないが、空は優雅なたたずまいを崩さずに正面へ回り込んだ。
 チャイナドレスを着飾った伸びやかな肢体に、過剰な色気は見受けられない。

「疑いになりますか? でも、本当ですよ。なにせ17年も経っているのですから」
「だから感慨深いって? それだけの時間をかけるとAIでも懐かしさを感じたりするのかしら。あなたにとって過去も現在もたいして意味の変わらない、同じ物だったりするんじゃなかったわけ?」
「私のメモリーは劣化しません。ですから昨日のことでも17年前のことでも同じようにリプレイすることが可能です。ですが、更新を重ねる時系列の最先端にいる場合は少々別です……それでも大きな違いが無いというご指摘も間違いではありません」
「なるほどね。あなたは変わっていない」
「ありがとうございます」
「褒めたと思ってるの?」
「ええ」
「そう」

 今彼女の目にしている「空」のビジョンが自分を視認しているのではない。
 彼女にモニターされている限り、無理矢理な会話によって強引に心を落ち着けようとした心理を見抜かれていないはずも無いだろうが、これが夢である以上理屈をこねくりまわしたところで意味は無い。
 昨夜見かけた人影が本当に空だったのかどうか、ここで問いただすことなど、まったく無意味であり、くだらない言葉遊びにさえならない……ならばこそ言葉遊びに興じるまでだろうか。
 彼女は迷った。

「それで結局、あのココは?」
「この場所で実際にあった出来事を再生した映像ということになります。鬼ごっこですね。鬼は少年さんで、ふたりきりの遊びでした」
「じゃあ、やっぱり追っても無駄なのね」
「いえ、意味はあります」
「どういうこと?」
「むしろ追っていただかなければ困る、ということです」
「意味が分からないわ。だって実際私はここに留まっているし、あなただって進ませまいとしている」
「そうでしょうか」
「そうじゃなかったらなんなの?」
「大丈夫です。私はここにいてもココちゃんをモニタリングしています。小町さんと私が一緒にいる限り、追っても追わなくても同じ事です」
「あなたは呼べば来ると言ったわ。それはどこにでもいるということでしょ。だったら一緒にいる必要すら無いんじゃないかしら」
「そうですね。ここでは私は神……に近いことが可能になります。でもそれは私と神をイコールにするものではありません。私は案外無力なんです」
「……?」
「おわかりになられないかもしれませんね。でもそれで構いません。私が仮想的に概念を抽出した存在であることを、なんとなく覚えておいてもらえばそれでいいんです」
「言っている意味がちっともわからないわ。そもそもあなた、なんなの?」
「なんなの、とは?」
「なにしに来たのかっていうことよ」
「はい」

 空はさもそれが当然のことであるかのように微笑んだ。

「お友達と遊びに、です」






 夢の中だというのに、彼女ははっきりとした疲労を感じていた。
 肉体的な疲労よりも、心理的なそれの方が上回っている。
 空が遊びに来たというのは嘘ではなかったらしい。
 文字通りLeMU内部を引っ張り回され、あらゆるアトラクションに同行させられた。
 いくら拒否してもまったく意に介さない。

「ちょっと空? あなたは客が嫌がるようなことは出来ないようにプログラミングされているんじゃなかったの?」
「基本的にはそうですね」
「だったら!」
「だって、小町さんはお客様ではありませんから」
「はあ!?」
「お友達なんですよ? 少しくらい遊ぶのにつきあって下さってもいいじゃありませんか」

 空は本心でそのようなことを考えているのだろうか。
 確か人を欺くための嘘はつけない仕様だったはずである。
 空はどのアトラクションに興じていても楽しげで、屈託の無い笑みをまき散らしていた。
 夜、人のいなくなった遊園地はひっそりと静まり返り、人工的であるがゆえに無機質な寂しさを漂わせる。
 喧噪を奪われたアトラクションは、ただひっそりと待つしか無い。
 必ず夜が明け、賑わいを取り戻せると信じて。
 実は深夜にもフィールドに妖精が集まり、それぞれ思い思いに遊びを楽しんで行く……などと考えるのはせいぜい小学生までだろう。
 ならば、今見せられているこの光景は現実世界の出来事ではなく、彼女の見ている幻ですらなく、茜ヶ崎空の回路を駆け抜ける電気信号なのかもしれない。
 仮にこれが現実であったとしても、それはさほど意味を持たないだろう。
 こんな話、誰も信じない。

「小町さん、楽しんでますか?」

 前を行くイルカ・メリーゴーランドに横座りする空が声をかけてきた。
 口調は興奮もあらわで、とても幻影だけの存在には見えない。 
 空は全てのアトラクションで同じ事を聞いて来た。
 返答ではなく非難で応じても、まったく気にした様子は無い。
 最終的には諦めてぞんざいな……しかし、空の望むような返事を口にしていた。
 楽しいと言えば何事も楽しく感じられるなんてことは無いはずだが、それに近い効果はあり、長い逃亡生活の中で硬直していた心がわずかに解けた。
 それだけは認めざるを得ない。
 ただ、カラオケ設備のあるアトラクションでデュエットを誘われた時だけは頑なに拒否した。
 譲れない一線はある。
 空は気落ちしたようだったが、それで少しだけ溜飲を下げることが出来た。
 これだけ目の前ではしゃがれると、嫌がらせのひとつもしてみたくなる。

「小町さん、酷いです。こんなことでお笑いにならなくてもいいじゃありませんか」
「私、笑ってる?」
「ええ」
「断言するのね。なによこんなの。それじゃまるで……」

 言葉を区切ったのではない。
 後が続かなかっただけだった。

「まるで……なんですか?」

 見透かすようにまっすぐ瞳を通して来る空に抗った。
 陳腐であっても、とりあえずそうしておくしか無かった。

「なんでもないわ」
「気になりますね」

 とは言うものの、空はそれ以上の追求をしてこなかった。
 うろたえている自分を感じていた。
 もし空が好奇心に駆られるまま、根掘り葉掘り聞き出そうと試みてきたならば、おそらく決壊していたことだろう。
 自己を立て直さねばならない。
 そう難しいことではない。
 これまでずっとそうして来て、完全に自分の身に付いている。
 自我を薄める事と、融解する事とでは根本的に質が異なる。
 ゆったりとしたリズムで深呼吸を繰り返し、少しずつ修復していく。
 見えないリングを心に描き、頭からくぐらせ足下で抜く頃には、元に戻っていた。
 いたずらに空を困らせて笑うなど、それではまるで……そう、友達同士のようではないか。
 落ち着きを取り戻した自分に満足し、周囲を振り返ってみると、そこは壁一面にロッカーの並ぶ部屋だった。
 従業員用の更衣室である。
 場所の変転にタイムラグの無いことが、夢である事を示していた。

「なんで更衣室?」
「小町さん、私、知ってますよ」
「なにが?」
「更衣室です」
「はあ?」
「更衣室は何をする場所でしょうか」
「着替える所でしょ」
「いいえ違います」

 空は得意げに人差し指を海面へ向けて立てた。

「更衣室は、秘密の行為をするところ……ですよね」
「なにそれ」
「違うんですか?」
「もしかして更衣と行為をひっかけてるつもり? それって面白いの?」
「それを小町さんがおっしゃるのは少々反則気味なのではないかと思いますが」

 彼女には言っている意味がよくわからなかったが、深く考えず流す事にした。
 ベンチに腰を下ろし、天井を見上げる。
 あの向うはすぐに海。
 同じように床の下も、人のいないこの時間なら、外界の光の差し込む余地のない深い闇。
 LeMUで採用されている飽和潜水仕様は、水圧に抗するため相応の圧力をかけた空気で内部を満たし、建築構造を維持する技術である。
 内部の空気を吐き出してしまえば、ストローで中身を残らず吸い上げたパックジュースと同じように、潰れてしまう。
 人間もそれと同じなのかもしれない。
 世界に抗するためには、相応の内圧が必要だ。
 わずらわしい人間関係を避けたいのならば……心を虚ろにしてしまえばいい。
 そうすることで世界の方が希薄になってくれる。
 ……が、空はまったく意に介さずひとり口を止めずにいる。

「私はずっと考えていました。秘密の行為というものが指すのは一体なんなのでしょう。なにをもってすれば秘密と言う事が出来るのか……なかなか難しい問題ですね。ですが、おそらく人の心の中、この場合秘密の行為を定義した小町さんは解を持っているはずです。小町さんはなんらかの意思を持って、何かを秘密という特別な階層へ送り込んだのです。シールで封を閉じ、しまい込む事でそれは完了します。ですがだからといって消えてなくなりはしません。秘密を暴こうとする者がいる限り、秘密はそれ自体が価値を持ち続けるのでしょう。秘密を暴こうとする者、すなわちそれを秘密と知る者。つまりは小町さんご自身」
「あなた何を言っているの?」
「ここは更衣室なので」

 問いかけを無視されたのは明白だった。
 さほど気にならなかったのは、結局の所自分自身たいして興味を抱いていないからなのだろう。
 互いが上滑りを承知でいるのならば、成り立つものもある。
 だが空の方ではそれを許さなかった。
 細い指先で空を切り、そして開く。

「服があります。小町さんのその装いは似合っているとは思いますが、いささか無粋に過ぎますね。着替えてみませんか?」
「別にそんなの必要無いでしょう」
「なぜですか?」
「なんのために服を着るんだと思う? あなたも服を着ている。それはなんのため?」
「裸じゃ恥ずかしいじゃありませんか」
「服は人に見せるために着るものだわ。ここには見せる相手がいない。だからこだわる必要も無い」
「それはどうでしょう。とりあえず私がここにいます。私は見ていますよ。それに相手がいないというならそれこそ裸でも良いことになってしまいます」
「あなた、裸を見せたいの?」
「いいえ」
「見せたいものと見せたく無いものがある。当然ね。それを選ぶのは私。私の服装がヤボだというのなら、見せる相手の価値がその程度ということよ」
「少し傷つきました」

 本気かどうかはともかく、空は肩をすくめた。
 これがどういった機能なのかまったく理解出来ないが、実際に傷ついているようには少しも見えない。
 それもまた絶やす事の無い微笑みのせいだろうか。

「使い分け……衣服というものが擬態に等しいという話ならわかります。ですが、そうであるなら、どんな服を着ても同じということになりませんか?」
「そうなのかしら」
「たとえばこれなどはいかがでしょう」

 空は手近なロッカーを開けると、中から服を取り出した。
 アイボリー地のワンピースには見覚えが有る。

「この場所で着るのにふさわしい服のひとつです」
「それ、優の」
「田中さんのというよりも、LeMUのものですが」

 一瞬、想像してしまう。
 田中優と並んで同じ服に身を包み、作り笑顔で入場客に応対する自分の姿にかぶりを振る。
 足も半歩下がっていた。

「冗談じゃないわ。やめてよ、そういうのは」

 ふと、何かが変わる。
 その場を支配していた何かが、はっきりとした変化を見せる。
 だというのにその正体に気づくまでに時間を擁した。
 空の浮かべる微笑みが変わった。
 微笑みは微笑みとして依然としてそこにある。
 しかし、まっさらだった笑みの中に混じる何かがあった。

「ではやはり、小町さんならこれですか」

 疑問符をつけず断じていることに、かろうじて悪意の欠片を見たかもしれない。
 次に空が手に取ったのは闇色のあの服だった。
 認めざるを得ない。
 自分から動揺を引き出す手口として、この上なく効果的であり、端的だ。
 わずかなほころびから滑り込み急激に肥大化するものの正体を恐れる。
 恐れそのものへの恐れは、自分の心から生まれ出ていた。
 空が恐ろしいのではない。
 揺さぶりを受ける自分の不安定な心が恐ろしい。

(どうということはないはず……こんなものは!)

 つぶやきは強がりに過ぎず、無力だった。
 改めて自分に命じる。
 落ち着きを取り戻し、揺れる心を殺せ。
 外部から干渉を受けるから心が乱れるのだから、断ち切ってしまえばそれで済む。

「くっ……」

 歯噛みは、可能なはずの制御を取り戻せない焦りのあらわれだった。
 脆過ぎる。

(要するに、知られるとはこういうこと。友を作り自分をさらけだしてしまえば、どうしたって急所を突かれずにはいられない。だから)

 誰にも知られずに生きて来た。
 また誰をも知ろうとしなかった。
 理にはかなっているはずだ。

「どうですか。これなら不満は無いと思うのですが」

 空はゆっくりと近づいて来る。
 自己を立て直す時間を与えないつもりなのは明らかだった。
 たとえ無力だと承知していてもすがる物が他に無い。
 つよがりは……やはり無力だった。

「そんなものは要らない!」
「そうですか?」

 距離を詰める足が止まる。
 だが、空は止まっていない。

「では私がこれを着てみるというのはどうでしょう。自分で言うのもなんですが、似合うとは思います」

 たかが一着の服をこれほど恐れる理由は本来ならば無いはずだった。
 だが、胸の底に眠る記憶があの日々を引きずり出す。
 たった一週間。
 これまで生きて来た長い人生を考えればちっぽけな取るに足らない時間。
 そんなものが自分の中で大きく根付き、消し去れない存在として膨れ上がっている。
 恐怖と諦観、闘いと死、そして……。
 かろうじて言葉をつなぐ。

「待ちなさい!」
「駄目ですか?」
「それは……それだけはやめて」
「拒否する事も出来ますが」
「あなたは!」

 自分の心の一角が崩れた。
 面倒なことになったという自覚がある。
 微細なヒビはあっという間に拡大し、崩壊をもたらした。
 ここまで崩れてしまえば立て直す事は容易ではない。
 必要とする努力の大きさに気が滅入る。

「なにがしたい? なにが望み? こんなことをして、人間ですらないあなたが!」

 生じた高熱は吐き出さなければならなかった。
 歯止めを失い放出を続ければ、きっと喉を痛めるだろう。
 今はそんなことも忘れて熱に身を任せるしかない。

「それは酷いおっしゃりようですね。まるで私に夢や希望が無いような言い草です」
「違うわけ? あなたはただ、設定された範囲でルーチンワークをこなしているだけ。そこに何の夢が? 希望が? あなたのそれは全部勘違いよ。でもそんなことだって気づいてるんでしょう?」

 罵れば罵るだけ崩壊も加速する。
 このままでは取り返しのつかない、死の予感があった。
 いや、逆か。
 感じられるのは生きている証。
 感じていたく無い証。

「LeMUにお越し頂いたお客様を無事に外へ送り出し見届けること。それは確かに私の職責です。それがルーチンワークであるというなら、否定はしません。その通りなのですから」

 空の淡々と、しかし陰鬱とした声に被せるようにして、遠く離れた場所で低い金属音が鳴り響いた。
 低い音が共振を招くのか、それとも衝撃が大きかったのか、足下がぐらつく。
 加熱した心に冷や水が刺された。
 この感触は知っている。
 振動は止まる事無く、むしろ振り幅を大きくしつつある。
 だが、LeMU全体を把握しているはずの人物は、何の反応も見せなかった。

「空?!」
「でもだからといって私に夢や希望が無いなどということを、どうして小町さんが言えるのですか? それは……酷い侮辱ではありませんか」

 既に彼女の細面に微笑みは無く、そして唐突に姿すらも消えた。
 持つ者を失った黒い服が、空しくその場に落ちる。
 空がRSDによって生み出された幻影であるならば、そもそも服を手に取ることすら出来るはずはない……が、そんな指摘は無意味だ。
 揺れは酷さを加速をつけて増して来ており、建築構造の根幹からの破壊を感じさせた。
 17年前の事件では館内に閉じ込められてから一週間の猶予があったが、今はまさに分解直前というような絶望的な予感がある。
 兵器による攻撃を受けたのでなければこれほどの急速な崩壊を招く方法はひとつしかない。
 パックジュースを飲み干すように、内部の気圧を下げてしまえばいい。
 セキュリティは厳重に設定されているはずだが、空が望めば可能になるかもしれない。

「こんな、ことで!」

 更衣室の扉を乱暴に開け、外へ出る。
 壁自体に歪みがあれば扉一枚開く事すら出来まい。
 荒っぽくなるのも仕方が無い。

(空がやった? 私が空の逆鱗に触れたっていうこと?)

 自問に応える解答は無い。
 たかだか服一枚の問答から招くようなことではないような気はするが、確かに言い過ぎたのかもしれない。
 通路は既に海水の浸食を受けていた。
 足が膝近くまで浸かってしまう。
 歩き辛い。走る事など出来るはずも無い。
 脱出するための道はあるが、空のサポート無しでそれを果たすことは難しい。
 思うように進まない足をこじ開けるようにして進め、とにかく歩いた。
 どこへ行けばいいのかも分からないが、その場に留まってはいられない。
 時折空の名を呼んではみるものの、応じる気配を感じられなかった。
 また背後で歪な金属音が響いた。

「この……音は……」

 背筋にどうしようもない寒気が走った。
 冷たい汗が首筋を辿り、シャツに滲む。
 今のは水圧に耐えきれず、一瞬にして無惨に潰れ朽ちる通路の音だった……ように思う。
 いくら自分でも水圧に押し潰される金属塊の中で生きていられるとは思えない。

「でも夢よね、これ」

 夢で死ねれば、それはそれで幸福なことかもしれない。
 少なくとも苦しさに身悶えることは無い。

「空……空!」

 足を止めずに、声を振り絞った。

「出て来なさい。どうして姿を見せないの? あなた言ったじゃない。追っても仕方の無い者と話をしたければどうすればいいかって。呼べばいいんでしょ? あなたはこのLeMUの中ならどこにでもいる。だったら姿を消す必要だってありはしない」

 振動は収まるどころか、呼びかけに怒りを見せるかのように激しくなった。
 通路を覆い尽くす水面も波立ち、もはやわずかな距離を歩く事すら困難だ。
 と、視界が遮られる。
 そこは行き止まりだった。

「あ……ここって……」
「そうです、ここです」

 耳元で囁かれ、思わず飛び退いた。
 足がもつれて腰を落としてしまう。
 最悪だ。下着までびしょ濡れになってしまった。
 舌打ちし、自分に降り掛かった状況を呪った……過去どれだけ繰り返して来たかわからないが、呪ったところでどうにもならない。
 ただ陰鬱になるだけだが、それでもやめられない。
 空はすぐ側に立っていた。
 彼女の足も海水に浸かっている。
 いや、見れば全身が濡れていた。
 白いチャイナ服は肌に貼り付き、美しい髪も乱れている。
 彼女に水に濡れた時のテクスチャが用意されていたのか、と考えてやめた。
 映像ではない。
 実際に濡れているのだ……おそらくは。

「ここで、ですね。私はみなさんを」

 空の歯切れが悪い。
 これまで見た事の無い彼女の姿だった。
 全身を水浸しにし、見開いた瞳の中には凄みがあった。

「ヒンメル」

 開かない扉の前で呟いたのは自分の方だった。
 LeMUには一般に知られることのない、隔離された施設が存在する。
 ここはその入り口である。

「私、その先へ行きたいんです。でも出来ません。私は制限されているから。その向うへ行く機能が無いのですから」
「この先って、あなたIBFへ行きたいの?」
「小町さん、言いましたよね。設定された範囲内でのルーチンワーク……そうです。それをこなすことが私の職責です。それが私の喜びなんです。でも悔いがあるとしたらどうでしょうか」
「悔い? あなたに?」
「あってはいけませんか」

 たじろがずにはいられなかった。
 目の前には水に打たれた惨めな美女の姿が、しかし声は反響してきた。
 両方の耳元で囁かれている。
 前からも上からも背後からも声をかけられている。
 幽鬼に等しいその姿は、空には似つかわしくない。

「無事にお客様に帰って頂くのが私の仕事……だったら、帰って頂けなかったお客様がいるなら、それを悔いるのは当然ではないですか」
「……それはココのこと?」
「悔いれば、それを解消したいと考えるのは自然なことでしょう? 今でも私は……無事に帰って欲しい。ココちゃん……倉成さん」
「武……」

 その名はそれだけで心の深い感慨を引き起こした。
 忘れていない。忘れられるはずが無い。
 助かるはずだった。
 ふたりで大地へ帰れるはずだった。
 海の底へ沈んだ……。
 自分自身ももう既にずぶ濡れになっている。
 床に手をつき、小刻みな波が頬を濡らす。
 このまま自分も沈んでしまえば、また彼に会えるのだろうか。

「だから、おふたりに帰って頂くのが私の夢。私の希望。私は間違っているのでしょうか。こんなものは夢とは呼べませんか?」

 空が返答を求めているとは思えない。
 ただ、心のままに思いを吐き出しているだけだった。
 問いかけですらない。
 だから、そのまま言葉を紡ぎ続ける。

「その先まで行けたら、もしかしたら叶えられるのかもしれません。でもどうしたらいいんでしょう。どうしたらそこまで行けるんでしょう。小町さんと私の違いははっきりしています。私は限界が定められているんです。自覚が有るんです。それ以上のことは何も出来ません」
「……」
「でも小町さんは、人間はそうではありません。限界があると考えているのなら、それは自分で線引きをしているだけ。大抵の場合は自分で低く見積もって諦めてしまう。それ以上のことが出来るかもしれないのに」
「あなたは」

 口を割り込ませてみた。
 空が聞いていないのは明らかではあったが。

「私は羨ましく思います。憧れます。人間という存在に」
「あなたは……」

 人間なのかもね、と言おうとしてやめた。
 そんな言葉で取り繕えるほど、彼女は浅く有るまい。

「私にすらあるんです。小町さん、あなたは心を虚ろにして何も感じないようにしている。それは見事なことなのかもしれません。でも嘘です。そんなのは欺瞞です。その証拠にあなたにも夢は、希望はある」

 普段の自分であれば否定し、罵っていただろうが、出来なかった。
 空は起き上がることも出来ない自分を見下ろしている。
 感情の見えないような、怒りに満ちているようなまなざしで。
 そんな彼女と目線を合わせられずにいる女に対して、優越感を覚えているのだろうか。
 微笑みが戻った。底意は感じられない。
 揺れもいつしか収まっていた。

「ひとつ意地悪をしましょう」
「え?」
「てのひらを見つめてください。両手です。そう、両手」

 言われるままに両手を広げ、胸の高さへ持ち上げる。
 長い間自分の苦しみを支え続けて来た、そのわりには奇麗でしなやかな指だった。
 若い少女の手……当然ではあるが。

「これが、何?」
「いやですよ小町さん。それこそあなたの求める夢……希望でしょう」
「何を言ってるの」
「その距離です」

 空の言っている意味がわからない。
 煙に巻くやり口は彼女のイメージではない。
 が、答えはすぐに与えられた。

「人を抱ける距離」






 悲鳴にも、犬の遠吠えにも似た叫びが喉から放たれていた。
 止まらない。
 止めようとしてもどうすればいいのかわからない。
 叫びを生み出しているのが呼吸器ではなく、心の深海であることは明らかだった。
 圧力が全てが煮えたぎらせ、泡を吹き出させ、外へ出させようとしている。
 肌はびっしりと汗が覆い尽くし、目尻からは熱い奔騰がこぼれていた。
 真っ暗な部屋の中で床を叩く。両手で何度も。
 苦情のことは考えなかった。
 あえて心からの慟哭に触れようとする者もいまい。
 声とは別に喉が悲鳴をあげた。
 痛い。
 途切れ、咳を連発する。
 それでもおさまらない。
 なんと脆いことか。
 空に似た女性の姿を見た。
 あの日に着ていた服を送られた。
 たったそれだけのことでこの有様だ。
 踏みとどまることすら出来ずに夢にうなされ崩れ落ちてしまった。
 本当はわかっていた。
 空の言っていた通り、夢も希望も無いなどというのは、欺瞞に過ぎない。
 心を殺して自我を薄めていたのは、飢えていたのを隠蔽するためだった。
 欲しくて欲しくてたまらなくて、それでも手に入ることはなく、辛く悲しいから、忘れることにした。
 人を抱ける距離を忘れたいから遠ざけた。
 忘れられるはずもないから、薄めるしかなかった。
 嗚咽は止まらず、ただひたすらに泣けた。
 鉄壁のはずの心の壁が脆かった理由など簡単だ。
 心の底では求め続けていたからに他ならない。

(ああ……それに……)

 叩いていた手を止め、床に突っ伏し、ごろりと横になる。
 手の届く距離にぬくもりはあった。
 暗闇の中でもはっきりと見える。

「チャミ……おいで」

 言葉にはなっていなかっただろう。
 それでも従順な友は呼びかけに応じ、手の中へ収まった。
 天井を仰ぎ見、可愛いらしいジャンガリアンハムスターを胸の隆起の上へ乗せた。
 この17年間、チャミを遠ざける事が無かったのは、失いたくなかったから。
 拠り所を残しておきたかったから。
 そこで記憶が暗黒に飲み込まれ、消えた。






「太陽って、あんな眩しいものだったかしらね」

 数日後。
 大海原は満遍なく日差しを浴びせかけられ、気持ち良さげに波打っている。
 青く見える程奇麗な海ではないが、そもそも光の屈折によってそう見えるだけのことだ。
 夕立ちの後に浮かぶ虹と同じようなもので、手に掬うことは出来ず、ただ儚くおぼろなだけ。
 大泣きした後の朝は、悔しいことではあるが久しく無かった快適な目覚めだった。
 疲れ果てて泥のように眠ったからだろう。
 何かを警戒してわざと浅い眠りに抑えることが無かった。
 おかげで体調が良い。
 以前は中途半端な眠りを続けたため頭痛が慢性化し、薬も効かなかった。
 ずきずきと鈍い痛みがこめかみの奥に居座りいらだちの原因となり、安らいだ気分とは縁遠くなっていた。
 今は食欲さえある。
 とはいえあそこへ行けばおそらくタツタサンドなのだろう。
 そういえばタツタサンドもあの事件以来食べていなかった。
 味は当時と変わっていないのだろうか。
 これも楽しみのひとつと呼べるかもしれない。
 もうすでに想い出の場所……LeMUの近くまで来ていた。
 送られて来たあの服に身を包むことへの抵抗感は、思ったよりも小さく、さほど意味の無いこだわりであることを知った。
 17年前のあの日も天気は良かったように思う。
 意外と……そう、変わらない物は多い。
 当然変わった物もある。
 あの時の自分は自暴自棄だった。
 LeMUを訪れたのも敵陣へ乗り込み何もかもを台無しにするためで、自殺行為と言っていい。
 なのに思いがけないものを手に入れて地上へ戻る事になったのだから、運命はわからない。
 今回も何かが待ち受けているのは間違いない。
 ただ、事故だった前回とは異なり人為的なものを感じていた。
 アパートへ服を届けに来たのが本当に茜ヶ崎空だったのかどうかはなんとも言えないところだが、いずれにせよ自分を招待したホストが存在する。
 あの事件における自分の服装まで知り得た人間はそう多く無い。
 案外本当に空自身だったのかもしれない。
 あの場所で、誰が何を見せてくれるのだろう。
 もう覚悟は出来ている。
 覚悟があれば、多少の余裕も出る。

「あ、ママ、ママ! あのお姉ちゃんハムスター連れてるよ!」
「あら、ほんと。可愛いわね」

 LeMU内部へ入るための浮き島までだいぶ近づいた頃、初々しい親子連れとすれ違った。
 元気にチャミを指差している女の子と、黙ってマジマジと見つめて来る男の子。
 同じような年頃だから双子なのだろう。
 彼女は肩に乗せていたハムスターに人差し指で合図を出した。

「チャミ、挨拶」

 きい、と鳴く。
 躾けていたわけではないが、長い時間はこの程度の呼吸を可能にさせていた。
 驚いて目を見開いている子供達が可愛らしい。
 自然に笑みがこぼれ出た。
 と、不意に思い出す。
 今回招待状を受け取ってはいるが、チケットが同梱されていなかった。
 前回も正規の料金を払って入場したのではない。

「だったら、どうにでもして入っていいってことよね……ああ、あれってそういうこと。案外空も人が悪いわ。フフ……ハハッ……」

 ひとり勝手に納得すると、心地良さに任せて歌を口ずさんだ。
 どこで覚えたのかすらわからない子守唄を、波の音を伴奏に、飛沫に舞う太陽の照り返しを観客に。
 想い出の場所を見据える瞳には眩しいほどの輝きがあり、足取りは力強く確かだ。


 end

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